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神戸からの手紙

神戸とマッチ

マッチ

家庭ではもう見かけることの少なくなったマッチですが、今でも神戸から姫路方面では大量のマッチが取り引きされています。
軸木の先に黄燐(おうりん)をつけたいわゆる黄燐マッチが英国で発明されたのが1827年。日本では1839年(天保10年)に四国高松藩士久米通賢が雷酸(らいさん)第二水銀を使用してマッチを試作したのが最も古く、燐を使用したものは1847年(弘化4年)に加古郡横谷村出身の蘭学者川本幸民が最初に始めた、といわれています。

マッチ

本格的なマッチ製造は、金沢藩士清水誠が明治3年欧州に留学中にこの製造法を学んで持ち帰り、当時の失業士族救済のための授産(じゅさん)産業として奨励されたことがきっかけとなって、花開いていきます。
その後、日本中で生産されるようになったため、国内だけではとても消費することができず、台湾、韓国を含め、販路として海外輸出がクローズアップされていきます。輸出となれば絹などの繊維製品や、銅を始めとする他の産品でも既に大きな商い高を誇っていた神戸が主役になるのは自然な姿であり、経験、地の利、そして、それに携わる華僑の知恵とネットワークが大きな力を発揮します。
次第に神戸の生産シェアは高まり、工場も周辺に集まりますが、後になって宅地化の進む神戸を避けて播州姫路周辺に移動し、現在もこの辺りが日本のマッチ産業の中心地となっています。
日本の生産・販売が最盛となった大正8年(1919年)には、全国のマッチ製造数量約6億ダース強(1,088,400トン)のうち、兵庫県が73%を占めていて、生産量の80%以上を輸出、輸出シェアの90%以上を神戸港が占めていました。

しかし、その後第一次世界大戦が終結し、欧州のマッチ工場が生産を再開するや、一気に日本のシェアを圧倒し、そのまま第二次世界大戦へ突入します。
そして、戦後、昭和48年に量こそ大正時代に及ぶべくもありませんが、二度目のピークが訪れます。生産性の向上と宣伝用マッチの興隆です。
各企業が広告の有用さに目覚め、媒体として安価、軽便なマッチに注目したためです。しかし、それも束の間、その後の凋落(ちょうらく)ぶりは誰もが知るところでしょう。
マッチ産業の盛衰は、基本技術の導入から始まって、生産技術の競争、輸出先市場の奪い合い、外資の流入、統制経済による縮小と沈滞、新しい競合商品(安価ライター)の登場による市場衰退等々、平坦な道ではありませんでした。むしろドラマティックともいえる百年だったことでしょう。
神戸の街を賑わしたひとつの製品の盛衰から何を学びましょうか。

参考文献:「日本燐寸工業会パンフレット」「マッチ時報 第65号」他


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