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神戸からの手紙

花隈あたり

〈悲しき花隈の城〉

花隈の城

神戸高速鉄道「花隈」駅の東北に高台があります。これが花隈城の跡です。 東西、南北の敷地をもつ堅固な構えだったというこの城は、織田信長が中国地方への勢力伸張拠点の一つとして荒木村重に造らせたとされていますが、築城後たった13年でその織田信長によって攻められ、落城します。
紆余曲折はあるものの結局、荒木村重が信長の怒りを買ったことによるものでした。当の村重はこの城で死んだわけではないのですが、城の落城と村重の謀反、そして一族郎党の無残な惨殺劇はセットで歴史に刻まれています。悲しい最期のせいか、城跡は飾るものもなく、寂寥としています。
近くの福徳寺の境内には碑があり、そこが花隈城の天守閣跡だったことを示しています。この碑は昭和44年、花隈城の戦いで敗れた荒木村重の20代目に当たる子孫が戦いの物故者の四百回忌法要記念として建てたものです。城としての本来の姿はわずかの間で、悲しい歴史しか残していませんが、その名前は花街として生き残ります。

〈花街として〉

花隈の街が花柳界として名を馳せたのは開港後です。それ以前は〈柳原〉が花街の中心でした。そこで江戸から明治にかけて桂小五郎が遊女お葛と浮き名を流したり、坂本竜馬や高杉晋作、後藤象二郎らが英気を養ったと言われます。昨年亡くなった淀川長治氏もその柳原の料亭置屋「銀水」が生家。小さい時から芸娘さんや芸妓さんたちに囲まれた生活だったと、自伝の中で語っています。経済の中心が兵庫の港からメリケン波止場へ移っていく過程で花柳界も徐々に東に移動していったのです。
花隈は坂道の街です。東北の急な坂道は曲がりくねっていて、東西の路地を覆い隠すような趣があります。どことなく人目をさけたような路地、しかも繁華街からは遠くないところです。南京町で成功した華僑たちが妾宅をおいたところともいわれ、やがて小料理屋ができ、いつしか花街となったといいます。成り立ちからしても目立ってはほしくない、ひそやかな性格をもった街だったのでしょう。
神戸在住の作家陳舜臣氏は「この急な坂を小さいときからよく通っていて、この辺りは他の花街と違って、夜でもひっそりとした情緒があり、耳を澄ますと、いつもどこからか三味線の音が聞こえてきた」と書いています。
明治29年11月25日から12月1日にかけて、日本で初めて映画が上映された神港倶楽部もこの花隈の中にありました。木造二階建て洋館造りのこの倶楽部は、財界人の社交場として造られたものですが、一般向けの催しにも開放されていました。「映画の日」(12月1日)はこれに因んで設定されています。
今この街は変わろうとしています。料亭はその趣を武器に若者を引き入れる工夫をし始めていますし、この坂を北野坂、トアロードに続く第三の坂「花隈坂」として整備し、「神戸三坂」というコンセプトを作ろうとする動きもあります。新しい神戸がまた生まれようとしているのかもしれません。

参考文献 : 「神戸ものがたり」(陳舜臣)、 「神戸の歴史を歩く」(藤井勇三) 他多数


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