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神戸からの手紙

アイスロード・イン・六甲

アイスロード

最近でこそ暖冬の関係から六甲の山上が凍りつくという実感はなくなってきていますが、今でも厳寒の頃は山頂の気温はマイナス15℃を超えます。そうなれば本格的な冬山。道は凍り、雪が降り、木々は凍え、山頂付近にあるたくさんの池が結氷します。大小30余りもあるというこの池、明治の初めから大正、昭和初期にかけて、天然氷の採氷のために掘ったものと言われているのです。そしてこの氷を市街地へ運び下ろすための道、現在の六甲山ホテルと丁字ケ辻の間、<前ケ辻>から六甲ケーブル下へ続くこの道が「アイスロード」と呼ばれていました。今でも登山者のあいだでは生きている道の名前です。

この道は北野を別荘としていた外国人たちが、休みになると山上の山荘やゴルフ場へ何人曳きかの駕籠で上り下りした道でもあります。氷の運搬は昼間には行わなかったようですが、細い道端で氷を背にした人と別荘へ向かう金持ちとがすれ違っていたと想像するのも一興でしょう。
氷といえば日本人は病人用の熱冷ましにと考えるのに対し、居留地に住む外国人たちは、食べ物を冷やす、冷たい飲み物を作る為という使い方をしたのでしょう。青い目の子どもたちが異人館の中で食べるアイスクリ−ム作りにも使われたに違いありません。
その需要はなかなか強く、且つ大きなもので、明治2年の記録には遠く函館から運ばれてきた氷が販売されていたことが記されています。明治10年頃になると、この需要と六甲山の寒さに目をつけた業者が山頂に池を堀り、天然氷の製造販売に乗り出します。明治30年頃には年間5000トンもの天然氷の産出があったというのですから、ひとつの産業と言ってもいいでしょう。
冬に切り取った氷を、おがくずを敷いた池のそばの氷室に筵をかけて保存し、需要が上向く春から夏にかけてそれを牛の背や大八車に載せて三宮や栄町の繁華街で売ったり、注文があると氷をカンナで削り、コップ一杯を五厘から一銭で売っていたようです。当時市内には氷の卸売業者70余名、販売先は遠く下関まで広がっていたとも。
しかし人工製氷の技術の進歩に伴い、六甲の採氷量は漸滅していきます。ここにも産業の盛衰の姿があります。最後に採氷されたのは昭和4年、記念碑台のそばのだったそうです。
今でも六甲山を上り下りする氷業者の姿を覚えている人がおられるのではないでしょうか。
昭和38年、六甲に人工スキー場が造られるまでは、この製氷の名残りの池、星野池、八代池、三国池などがスケート・リンクとして賑やかだったことすら、今はもう昔の話です。

参考文献 : 「KOBEの本棚」(神戸市立中央図書館)、 「六甲山ハイキング」(創元社)


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