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神戸からの手紙

小泉八雲と神戸

小泉八雲

1994年(平成6年)兵庫県中央労働センター玄関前庭(旧居跡)にラフカディオ・ハーン来 神百年を記念して顕彰碑が建立されました。
1894年(明治27年)ラフカディオ・ハーンは熊本五高の教職を辞して神戸に移転、居留外国人向けの英字新聞「神戸クロニクル」紙の論説欄を担当し、独自の視点で精力的な執筆活動を行います。
同紙に発表された論説全編に流れる基調は一貫して西洋文明・歴史の遺産を評価しながらも、これからの世紀、こと日本を含むアジアに関してはその論理に限界があることを主張しています。 但し記事の視点は彼の新聞記者としての視点であり神戸という街にはありません。日本の文化が手放しには誉められないことを痛烈に批判することも忘れていません。

小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは1850年ギリシャ生まれ。父はアイルランド人の軍医、母はギリシャ人。若くして両親の離婚、育ての親である大伯母の破産、事故による左目の失明、アメリカでの生活苦と波乱万丈を経験しています。
1890年(明治23年)日本旅行記記者として来日(横浜)、後に些細な諍いからスポンサーとは袂を分かち、松江、熊本、神戸、東京と生活の地を変えていきます。この間日本の昔話や怪談をまとめたことは有名ですが、彼が短期間に日本の方言混じりの言葉に馴染むわけがありません。すべて松江時代に結婚した出雲出身の小泉セツの目を通してのものです。問題は言葉の壁ではなく、受け入れる側の感性であり、ジャーナリストとしての感覚は、事実を見つめることであると考えていましたから、あくまでも出雲の地方人としての感覚を失うことのなかったセツの口を介してこそ自分の追い求めていた日本を発見したのでしょう。彼が認めていた日本は「松江(出雲)」だけだったようです。
月給200円の熊本五高での教員生活を捨てて、月給100円の神戸での生活を選んだのですから、よほどの思いがあったはずですが、かならずしも神戸に良い思いを抱いていたとは思えません。表面的には居留地の外人たちの振る舞いやこれに迎合するかのごとき日本人たちの生活、趣味、行動に異を唱えていたのも確かですが、神戸の街全体が病のようにその流れに沿って変容していく様が気に食わなかったようです。
外へ向かって羽ばたこうとする神戸の姿を批判的に捉えた数少ない外国人としても重要な人物です。
しかし後は東京に転居してそこで死ぬまで、神戸での生活が私生活の上で重要だったことも確かです。神戸在住の1896年1月15日に帰化願いが許可されています。
純粋な日本の姿としての松江から、西南戦争後の混乱の熊本、西洋文化との融合真っ只中の神戸、過渡期の最前線東京。彼にとって落ち着く場所は松江以外になかったのかもしれません。
八雲は神戸に在住中三回も転居しています。何故転居しなければ済まなかったのかは依然謎のままです。
八雲が神戸に住んだのはたった1年と9カ月余りという短い期間です。

参考文献 : 「神戸居留地の3/4世紀」(神戸新聞社)神木哲男・崎山昌廣編著
     「神戸クロニクル論説集」(恒星社)真貝義五郎訳


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