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神戸からの手紙

六甲の川、水害の歴史

雨に弱い地質・地形

六甲の川

昭和13年(1938)7月。3日から降り始めた雨は4日にはいったん小降りになったものの、5日未明から再び豪雨となって阪神地区を襲い、土石流を発生させ、生田川や宇治川などを氾濫させます。もちろん被害は表六甲だけでなく裏六甲にも広がっていて、死者616人、負傷者1011人、被害総額1億4399万円が記録されました。いわゆる「阪神大水害」です。

神戸は六甲の麓に位置します。この地理的環境の利点は計り知れないものがありますが、同時に下流に住む人間にとっては凶器にもなります。六甲山から流れるいく筋かの川は雨を集めて、東西に長く南北に狭い神戸の街を一気に海まで駆け下ります。元来六甲山は老廃期の花崗岩地であり、風化が激しく崩れやすい禿げ山だらけの悪地でした。脆(もろ)く風化しやすい性質はけっして雨に強いとはいえず、しみこむ量が多すぎると雨を持こたえることができませんでした。ただ、この花崗岩は磨かれて「御影石」の名称で各地で愛されていますし、更に六甲に降る雨がその中にしみこみ、濾過されていくことにより良質の水「宮水」を生み出してもいます。

生田川 氾濫した面影も今はなく、静かに流れている生田川

六甲の緑

明治初期には、徐々に増えだした人口の影響による残り少ない木々の伐採や、山火事などで六甲の山肌は極度に疲労していたといいます。その頃明治政府から派遣された元老院議官槙村正直は、山は骨と皮だけになっておりその皮も骨も崩れつつあると観察し、植林の必要性を説いています。
やがて近代的な政治機構が整備され人口の増加とも相まって、貯水池の建設、水源涵養(かんよう)を目指した植林の励行、六甲に住む外国人たちの山歩きの趣味も影響したのか、山地の歩道整備、そして、自然保護の気運の高まりもあって徐々にその姿を変えていきます。
ようやく全山が緑に覆われるようになるのは大正時代に入ってから。従ってその歴史はあまりに浅く、木々の成長は充分であるはずがなく、完全なる治水にはほど遠かったのはしかたがなかったのかもしれません。
今、六甲を新しい現実が襲っています。それは長引く平成不況による企業の保養所閉鎖の風です。関東の保養所が集まる箱根や関西でいえば琵琶湖のほとりも同様です。百年かけて自然を取り戻した六甲に、新たな荒廃が襲おうとしているのかもしれません。次の百年への警鐘といえそうです。

参考資料:神戸市紀要「神戸の歴史」第18号


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