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神戸からの手紙

数奇な生い立ち 須磨離宮公園

須磨離宮公園

神戸の西の端、須磨は源氏物語の時代からの景勝の地。近代に至っては南面斜面に居留地に住んだ外国人や阪神間の裕福な層が競うように別荘を建てた地域です。そんな中、山を少し登ったところに「須磨離宮公園」があります。明治40年代初め、明治天皇の神戸沖観艦式等のため離宮を造ろうという計画が政府内で持ち上がり、検討の結果、当時須磨にあった西本願寺大谷光瑞伯の別荘と隣接地に建つ別荘を明治41年に宮内庁が買い取り、45年に離宮建設が着工しました。

大谷光瑞といえば浄土真宗西本願寺派の第22代門主。37才という若さで亡くなるまで、教団の国際化や仏教教団の信仰の真の再生を狙いとして「大谷探険隊」を自ら率い、三次にわたり、中央アジアの仏教遺跡を探険したことでも有名です。
ここ須磨の別荘でそうした探険の疲れを癒すと共に、探険で得たいくつかの発掘品を置いてじっくりと愛でていたのかもしれません。
離宮としての当時の名は「武庫離宮」。敷地面積6万3666坪、建物は36棟からなる1544坪の総檜造り、白木の御殿だったとのことです。
明治天皇は万葉集にも詠みこまれたこの須磨の地への行幸を楽しみにしておられたとのことですが、完成を待たずに崩御。ようやく大正3年になって完成します。

須磨離宮公園 元の離宮の面影を残す黒瓦の門構え

表向きの理由はどうであれ、宮内庁がこの須磨の地への離宮建設に関わったのは、大谷光瑞側か らの働きかけもあったのではないでしょうか。光瑞の奥方は貞明皇后の実姉です。病気がちだった大正天皇は貞明皇后と共にたびたびこの地を療養のため訪れています。
須磨離宮は残念ながら昭和20年3月の戦火で消失、終戦後は神戸市に下賜されたものの21年にはアメリカ駐留軍に接収されます。返還後、昭和33年、今上天皇(当時皇太子殿下)のご成婚記念事業として須磨離宮公園の計画が立てられ、昭和42年5月に完成しました。
ヨーロッパの宮殿を思わせる前庭、噴水越しに見る海、そこをゆっくりと過ぎて行く船の姿、そして水脈。元の離宮の面影が一部に残り、賛沢な空間が広がります。
その後、隣接する個人住宅(岡崎邸)を買取、市改90周年記念事業として整備、観賞温室が併設されました。平成元年には、「日本の都市公園100選」に選定されています。


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