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神戸からの手紙

須磨寺あたり 平家へのレクイエム

須磨寺本坊
須磨寺本坊

源平の物語にはどこか”哀しさ”があります。頼朝・義経兄弟、暴れん坊義仲、清盛、甥の敦盛、と華やかな中にも滅びの美学が漂います。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」で始まる「平家物語」は平家一門の盛衰を題材としていますが、特に平家の最後を語る場面では神戸から須磨に至る一帯が重要な役割を果たします。
源義仲に都を追われた平家一門は、三宮の生田の森から須磨の一の谷にかけて最後の陣を張ります。しかし源義経の裏山からの奇襲攻撃、いわゆる「鵯越え(ひよどりごえ)」は平家を最後の敗走へと追いやります。
こうした中、清盛の甥、平の敦盛(当時十六歳)は源氏側の坂東武者、熊谷次郎直実に一騎打ちの末敗れ、須磨浦の海岸で首を落とされます。文楽や歌舞伎の「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」でおなじみの場面です。この時敦盛が最後まで身に付けていたのが世にいう「青葉の笛」。祖父忠盛が鳥羽上皇から拝領したものを笛の名手といわれた敦盛に伝えたもので、現在須磨寺に所蔵されています。

平敦盛騎馬像
平敦盛騎馬像

敦盛自身は平家の大将の一人ですから、「首」は義経の検分のため須磨寺へ、一方、首から下は須磨の海岸に打ち捨てられてしまいます。須磨浦海岸のそばには供養塔があり、いつの頃からか「敦盛塚」と呼ばれています。白砂青松の須磨の浦に蕭々(しょうしょう)と響き渡る風の音は、敦盛への、そして平家へのレクイエムだったに違いありません。  須磨寺にはこの他にも敦盛の首を洗ったとされる「首洗池」や、義経が敦盛の首実験をするときに座ったという「腰掛松」もあって、源平の盛衰に思いを馳せることができます。

熊谷次郎直実騎馬像
熊谷次郎直実騎馬像

須磨寺あたりは、戦前からの建物が多く、今回の大震災でその六割が倒壊したといわれますが、敦盛塚は無事。倒壊を免れた須磨寺の本坊が、急遽被害者の方々の遺体安置所として読経の声に包まれていたのは記憶に新しいところです。

やがて平家の世は終わり、源氏は幕府を鎌倉へ。東西を結ぶ交通の要諦の地としての外、再び須磨の地が歴史の表舞台に登場することはありません。須磨浦公園には芭蕉、子規、虚子の旬碑もあります。須磨の海岸が秋の風に吹かれる頃、西へ向かって歴史散歩をしてみるのも、また新たな神戸発見になりそうです。

月を思ひ人を思ひて須磨にあり  虚子

参考資料「兵庫の歴史散歩」(上)山川出版社他


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