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ホーム > 特集 > 神戸からの手紙 > 幕末の不運「徳川道」

神戸からの手紙

幕末の不運「徳川道」

徳川道

六甲の緑が迫る神戸の街には、たてよこに幾つかの街道が走っています。神戸の街を東西に貫く「西国街道」即ち今の国道2号線。これに平行して走る山手幹線、南に下って国道43号線。そして有馬の温泉へ六甲を越えていく南北の道「魚屋道(ととやみち)」「住吉道」等々。

街道にはそれぞれの深い歴史があるものですが、そんな中にずいぶんと変わった生い立ちを持った街道があります。西国街道迂回路として幕府お声掛かりの位付けであったにも拘らず、一度として正式に使われることなく廃道となってしまう不運の街道「徳川道」がそれです。

徳川道

神戸(兵庫)の港が横浜に続き開港されたのが慶応3年(1867年)12月7日。幕府は開港こそしたものの、外国人と諸大名との接触による、ごたごたを特に恐れました。1862年横浜で起きた生麦事件は記憶に新しい上、外国勢との武力の差が身に沁みて分かっていたからです。
西からきた参勤交代の行列はトラブルを避ける為、大蔵谷付近から西国街道と別れて道を北へとり、山道を白川、鈴蘭台と辿り、更に今の森林植物園を抜け、摩耶山の裏から仙谷(そまだに)へ出て南へ下り、石屋川沿いの御影でもう一度西国街道に含流する手筈。全長は約32Km。これならばなるほど接触トラブルもないはずです。総予算額3万6189両のこの工事、兵庫開港の12月7日に完成しました。

徳川道

歴史は皮肉なもの、この「徳川道」が完成した12月7日の2日後には王政復古。幕府は崩壊し、明けて慶応4年(1868年)1月3日には<鳥羽伏見の戦い>という歴史の大転回の時期に当たってしまい、参勤交代も無くなり、この街道は利用されることもなく8月13日付けで廃道となってしまいます。
更に歴史の皮肉は続いていて、新政府の出動命令で山陽道を東進してきた備前岡山藩480名の一隊はこの道の完成を知らずに西国街道を東進、三宮神社付近で生麦事件と同じように外国兵とトラブルを起こしてしまいます。危急を察した後続部隊は途中から進路を変え、避難路としてこの 「徳川道」に逃げ込んで東へ向かいます。これが「徳川道」が本来の目的に使用された最初で最後のことだったらしいのです。

今、六甲のハイキングコースには所々「徳川道」の道標があり、市民の足が途絶えることがないとのこと。「徳川道」は歴史の不運を恨むこともなく、ひっそりと今日も神戸の街を見下ろしています。

<資料提供> 神戸市土木局 公園緑地部施設課 森林整備事務所


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