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特集

私のきんつば物語
神戸からの手紙

私のきんつば物語

きんつば

神戸の歴史とともに歩んだ百年、そしていまや全国の人々に愛され続けている本高砂屋のきんつば。そんなきんつばにまつわるお客様の思い出やエピソードを募集いたしましたところ、多数の応募をいただきました。謹んでお礼申し上げるとともに、「私のきんつば物語」編集室で厳選させていただいた入選作をここに発表させていただきます。  また、心のこもったエッセイが多くあり、「私のきんつば物語」として小冊子にまとめさせていただくことになりました。

優秀賞「祖父の伝えたかったこと」 大阪府 Y.Y様

祖父は今でいう脳梗塞で倒れ、長年病床に伏していた。人と話すことが何より好きで客人が絶えず、自らお茶と和菓子でもてなしていた祖父にとって、言葉を失った辛さは想像に余りある。今の医学ならリハビリにカを入れて、手足の自由と言葉を回復させることもできただろう。けれど当時の医学は逆で、動かすことは奨励されなかった。喋れない、歩けない、書けない…それが祖父の晩年だった。不自由な言葉も時間と共に身内にはそれなりに通じるようにはなったが、伝わらないはがゆさで祖父が無念の表情を見せることも少なくなかった。

ある日のこと、祖父が必死に何かを伝えようとしている。家人が集まって祖父の目を読むのだが、わからない。私は紙を持ち、鉛筆を祖父に持たせた。全員が固唾を飲んで紙の上をがくがくと震えながら滑ってゆく無骨な線を追った。片仮名だろうか。キ・ン?・ツ?・何を言いたいのだろう。まだ誰もわからなかった。最後に力を振り絞って書いた字。バ! 「ああ、きんつば!おじいちゃん、きんつばが欲しかったのね」。皆、安堵で笑いがこぼれた。私はきんつばを買いに飛ぴだした。祖父の甘いもの好き、中でもきんつばが大好物なのを知っていながら、喉に詰まるのを恐れて、あえて水分の多いものを食に選んできた。それがこの時程哀しく、申し訳なく思えたことはない。祖父は歯のない口の中で、きんつばを今までで一番おいしそうに頬ばった。至福の表情だった。いぴつに並んだキンツバの文字を眺める家族の口から、それぞれに詫びや悔いの言葉が漏れた。

あれから二十二年。祖父の仏壇にきんつばを供えることが多い。不自由な発音で幾度も口にした「きんつば」という言葉。その『音』を今も私は忘れていない。街角できんつばを目にすると、祖父が浮かんでくる。祖父の震える文字が蘇ってくる。キ・ン・ツ・パ。

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佳作「三度目の正直」 群馬県 S.T様

神戸には、もう何回行ったろう?その度に当然、お土産を買って帰ったのだが、最高の神戸土産に巡り合ったのは三回目の旅行の時だった。最初は、高校の修学旅行だった。初めての神戸は何もかもが魅力的だった。母のお土産に、赤や青のビーズ玉で編んである異国風(?)の財布を買った。母は、それなりに喜んでくれたが、その後、それを使っている所を見たことはなかった。

次に神戸に行ったのは、大学三年の時だった。神戸出身の同級生が帰省するので彼について行ったのだ。彼と飲んでいてたまたま靴の話になってどういうわけか、母に靴を買って帰ることになってしまった。神戸の婦人靴は最高なのだそうだ。バイトで貯めた金で、ちょっと白っぼい、かかともそれ程高くないパンプスを選んだ。家に帰り母に見せると、その場ではとても喜んでいたが、その後、これを履いているのを見たことがなかった。そのうちその靴は下駄箱から消えた。

三度目は、就職して四年目の時だった。仕事を終え、お土産を物色した。過去二度の苦い神戸土産のことが脳裏をよぎった…。選んだものは本高砂屋のきんつばだった。それを選んだのは、当時付き合っていた女の子の、「神戸土産は本高砂屋のきんつばに限る」という強い助言があったからだ。それに値段も手頃だった。

父を亡くして間もなかった母は、それを仏壇に供えた。忘れていた、親父は甘いものが好きだったのだ。「お父さんも、お前がいいものを買ってきてくれたと言って、きっと喜んでいるよ。ほら見てご覧、お父さんが笑っているよ」

そう言って、仏壇の中の写真を見せた。今までで一番喜んでくれた神戸土産、それが本高砂屋のきんつばだった。ちなみに、きんつばを買うように助言してくれた女の子は、今、私の妻になっている。

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佳作「物理ときんつばの困果関係」 兵庫県 S.S様

1988年、夏。高校一年生その頃の私はうだるような日差しの中、一時間半の通学路を補習に通っていた。楽しい夏休みを邪魔するその忌まわしき科目は、物埋。そう、私は物理が大嫌いだった。そもそもの理由は担当の先生だった。当時の先生に対する印象は「やはり物埋の先生になるには、几人の発想じゃダメなんかなあ」である。先生の考え方や方言に私はよく頭を捻ったものだ。捻れぱ捻るほど混乱し、とうとう考える努力をしなくなり、結果、補習という最悪の事態を招いてしまった。自業自得ではあるが、物埋が苦手になり連鎖的に先生も嫌いになった。

そして迎えた補習最終日。先生は平然と口を開いた。「今からテストをします。デキが悪けれぱ覚悟しときなさい。まあ『本高砂屋のきんつば』を持ってきてくれれば僕も考えましょう」。一瞬、私の中に光が走った。『本高砂屋のきんつぱ』、まるで呪文のように唱えながらテストを受けたのを覚えている。そういえば授業中にも『本高砂屋のきんつば』という固有名詞を耳にしたことがあった。物理ときんつばという妙な組み合わせが面白い。テストは無事に終わり、夏休みも終わった。

それから数ヶ月後、父に連れられて神戸に行く機会があった。そして元町で見たのが、「本高砂屋のきんつば」。次の瞬間に私は財布を出していた。手にした時のずっしりとした重み、口にした時の砂糖の溶けていく感触。二個目は傍らに番茶を用意して食べた。「これで物理ができるようになるかも」とカン違いもした。

あれから十年が過ぎようとしているが「本高砂屋のきんつば」と会うと必ず物理の先生を思い出す。結局一番嫌いな先生が一番印象に残ってしまったのだ。最後に、きんつばを食べても物理はどうにも克服できなかったのは言うまでもない。

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佳作「買いそびれた母への土産」 兵庫県 M.M様

子供のころ、となりの方が神戸で働いていて帰ってくる度に「高砂きんつば」を貰っていました。都会の人はいつもこんな美味しいものを食べているのかと羨ましく思っていました。父は私が五歳の時に亡くなり、若い母と姉と妹二人の五人家族の貧乏暮らしをしていました。頂いたといっても高価な「きんつば」は五個です。母は自分の当たり分をいつも男一人の私にくれて私だけが二個食べていました。そのためか八十歳の今に至るも絶対の甘党です。新聞で「”高砂きんつば”歴史刻んで百年」を読みまして、生涯忘れることの出来ない思い出に懐かしさのあまりペンをとりました。

飾磨郡英賀保(しかまぐんあがほ)小学校五年生の時に神戸沖の海軍観艦式がありまして、学校から五、六年生が一緒に修学旅行で神戸に行きました。摩耶山や布引の滝から神戸沖を見て下山し元町通りで三十分間の自由時間になりました。大勢の者が三越に入りました。私は母がいつも私にくれて食べてないので、おみやげは母に「きんつば」をと思いお店の行列に並ぴました。一個のきんつばは何回もひっくり返して焼くのでなかなか順番がきません。そのうちにうっかり時間を忘れていました。三越前で先生が集合させたら「五年の松浦がおらへん」と言うので先生が捜し回られたそうです。姉が六年で一緒だったので心配してずっと泣いていたそうです。やっと本高砂屋の行列で先生に見つけてもらって、皆と一緒に帰りましたが、とうとう母に三個でもと思っていた「きんつば」が買えませんでした。帰ってから母にその事をいうと姉や先生を心配させたとひどく叱られました。

その母も姉も今は帰らぬ旅に行ってしまいました。今も姫路のデパートで「本高砂屋のきんつば」を見る度に遠い遠い昔の観艦式と「きんつば」を恩い出して母や姉を追慕しています。


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