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お菓子にまつわるいい話

日本の祭り1 花の祭り

【 四季を愛でる、日本の祭り その1 】

この世の春を謳う、花の祭り。春来りて、花は咲き、人はその華やかさに酔いしれます。そして、散り行く花を惜しみつつ迎える、一つの季節の終焉。しばしば人の生涯にも例えられる花の一生はまた、数多くの「花の祭り」として、私たちの暮らしの中に今も息づいています。

雅な貴族文化への憧憬と「太閤花見行列」

高く掲げられた輿(こし)の上には、年老いた太閤秀吉。その後には淀君と幼い秀頼、北政所に大勢の待女たち。それぞれの役どころに扮(ふん)し、華麗な桃山装束に身を包んだ行列が満開の花の下をねり歩く「太閤花見行列」は、毎年桜の季節に京都・醍醐寺で行われる、恒例の春祭りです。慶長3年(1598年)、太閤として頂点に君臨した秀吉は、淀君らに見せるため、権力に物を言わせて強行軍で醍醐寺・三宝院にみごとな桜の庭を造成。全国の大名を招いて盛大な花見の宴を催し、文字どおり”人生の花”を咲かせました。しかし、皮肉にも花の宴の二カ月後、まるで咲き誇った桜が一気に散るがごとく、秀吉は病に倒れ、伏見城でその波乱の生涯を閉じることになります。秀吉はもとより、私たち日本人が今も愛してやまない花見の行事は、もともと平安時代に貴族たちの間で始まったもの。時代の移り変わりとともに、貴族に代わって政治の実権を握った武士たちは、それまで上流社会の文化として手の届かない存在だった桜の宴をこぞって模倣するようになったのです。奈良の吉野山を桜で満たした足利義満。晩年は花見遊興や茶の湯など貴族文化に憧れ、夢中になった秀吉。そうした時の権力者たちの粋狂によって、それらは次第に庶民の間にも広まってゆくことになります。

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京の祇園の花が咲く「都をどり」

日本人にとって春の花といえぱ、桜。しかるに京の花街には、また趣を異にした”花”たちが艶やかに咲き競う祭りがあります。  毎年4月1日から始まる祇園の「都をどり」を皮切りに、宮川町の「京おどり」、上七軒の「北野をどり」、先斗町の「鴨川をどり」と、それぞれ特色と雰囲気をもつ花街の芸妓たちが芸を競うこの京の行事は、春祭りと呼ぶにふさわしく、各花街の歌舞練場では艶やかな舞台が繰り広げられます。中でも「都をどりはヨーイヤサー」の掛け声で幕が上がる「都をどり」は豪華な演出に人気があり、全国的にも知られています。しかし、その起こりは明治5年と以外に新しく、明治維新と東京遷都によって衰退した京都を活気づけるために行われた第一回京都博覧会の余興が今日まで受け継がれているものです。つまり、我が国の地方活性化イベント第一号とでもいえるでしょうか。ところでこの「都をどり」、京都ならではの風雅な趣向が凝らされています。踊り見物の前に茶席に案内され、舞妓のお点前による薄茶をいただくことが出来るのです。気軽な立礼ながら、銘々皿には春の意匠を凝らした京菓子が添えられ、また、この銘々皿は記念に頂けるので、それを楽しみにしている常連さんもおられるということです。

桜をモチーフにした創作和菓子3種 桜をモチーフにした創作和菓子3種

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お釈迦様の生誕を祝う「花まつり」

中国の乞巧奠をルーツとする七夕祭りは、本来は「シチセキ」といい、桃の節句や端午の節句と並ぶ五節句のひとつでした。ではなぜ、現在では「タナバタ」という名で呼ばれているのでしょうか。その理由には、この祭りのもうひとつのルーツが隠されているのです。古来、日本では旧暦の七月十五日が盆に当たる日でした。農耕民族である日本人にとっての盆は、畑作の収穫に感謝を捧げ、秋の稲作の実りを祈願し、さらに祖先の霊を祭る、一年で最も重要なイベントの一つ。その準備は七月七日から早々に始められ、人々は家を隅々まで掃き清め、笹飾りを飾って来る十五日に備えました。その傍ら、盆とともに訪れる農耕の神に棒げる布を織るため、村の乙女たちは川や池のほとりにしつらえた棚の上で機織りをしたのだとか。彼女たちは「棚機女」と呼ぱれ、これが現在の七夕の語源になっているといわれます。すなわち、七夕の行事はもともと、盆を前にして日々の汚れを清めるために行われたものだったのです。今でも地方によっては、七夕の夜に水浴びをしたり、井戸をさらう習慣があるのは、そうしたことの名残なのです。このように日本の七夕祭りのルーツは、中国から渡来した乞巧奠だけでなく、日本古来の盆の行事とも深い関わりがあるのです。

創作和菓子「つばき(つばき)」 創作和菓子「つばき(つばき)」

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はかなさの美学を極めた舞台「金閣寺」

春の訪れとともに徐々に花開きはじめ、やがて絢爛の時を迎えたのも束の間、潔く散りはててゆく桜。日本人の美意識には特有の「はかなさの美学」や「滅びの美学」があると言われますが、その美意識を最も明らかに象徴しているのが、この桜の花といえるでしょう。古くから和歌などに好んで詠まれている桜も、花そのものの美しさよりも、それを見る人の「滅ぴの美学」を表現するものとして用いられています。たとえば、生涯桜を愛した花の歌人として有名な西行の歌に『願わくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ』 という一首がありますが、彼はこの歌の願いどおり、建久元年(290年)二月(旧暦)にこの世を去りました。また、歌舞技の世界でも桜はなくてはならぬ背景であり、また主人公の心境を表現する小道具でもあります。数ある歌舞伎の物語の中でも、桜を最も効果的に用いているのが祇園祭礼信仰記の金閣寺の場。時の権力者・松永大膳は、主人公の雪姫に横恋慕し、自分の意のままにならねば、彼女の恋人・狩野直信を亡き者にすると脅します。あわれな雪姫は桜の樹に縛り付けられてしまうのですが、散り敷く桜の花ぴらを爪先で集めて鼠を描くと、たちまちそれが生きた鼠に変わり雪姫を助ける、という有名な「爪先鼠」の件(くだり)。恋人を思い、身をもだえて嘆く姫の上に、雪のように降りそそぐ桜の花びら。散り行く花のはかなさと妖艶なまでの美しさが、雪姫という主人会をさらに魅力的に見せていることはいうまでもありません。

創作和菓子「侘助(わびすけ)」 創作和菓子「侘助(わびすけ)」

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美しくも妖しき花の終焉「鎮花祭」

昔から「木の芽どき」などとも言われ、春の花が咲き、散るころには悪霊が人々の心身を悩ますとされていました。そのため桜の散る時期になると、全国各地の寺院や神社などで、花の御霊を鎮め、厄払いをする祭りが行われます。もともとこれらの行事は、春に蔓延する疫病の退散を願って平安時代に盛んに行われたもの。わが国最古の神社である奈良大神(おおみわ)神社の「鎮花祭」を筆頭に、山桜を花神に棒げる吉野金峯山寺の「吉野花会式」、桜を飾った花笠をかぶる京都今宮神社の「安良居(やすらい)祭」、滋賀県大津市・日吉神社の「山王祭」などがことに有名です。これらの祭りが終わる頃には四月も下旬となり、絢爛を極めた花の季節も静かにその幕を下ろします。そして舞台は、輝く太陽と生命に満ちあふれた新緑の季節へと、その情景を移していくのです。

  • 参考文献
  • 「京都の祭り」保育者
  • 「さくら百科事典」婦人画報社
  • 「生活ごよみ春」講談社
  • 「年中行事辞典」東京堂出版

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